物語の必要十分条件は何?

ストーリーメーカー 創作のための物語論 (アスキー新書 84)



39 :名無し物書き@推敲中?:2009/06/29(月) 21:10:06 ID:?
物語の必要十分条件は何?

40 :名無し物書き@推敲中?:2009/06/29(月) 23:07:25 ID:?
物語。
それは情報ではなく、情報の蓄積でもない。
考えられた結果だ。

誰を中心に据えるかで、同じ事件は、千変万化に姿を変える。
つまり、事件は一つ。けれど物語はそれに関わった人の数だけあるのだ。

41 :名無し物書き@推敲中?:2009/07/12(日) 13:15:21 ID:?
まず、小説の定義について考えてみよう。どういう条件を満たしていれば小説と言えるのか。これは意外と小説を書いている人でも、きっちりとした返答ができる人は多くないように思う。
 小説の最もオーソドックスな形態といえば散文(音韻などに制限されない、自由な文)で書かれたもので、人によってはそれ以外の形式で書かれた小説を「小説」として認めない人もいる。
 しかし実際には、日記と同じ形式を用いた小説もあれば、詩と同じ形式を用いた小説もある。また、同じ散文で書かれたものでも、エッセイと小説は別物であると考えられている。
 つまり小説は、表面的な形式によって区別されているわけではない、ということになる。

 では、何をもって小説は「小説」と呼ばれているのであろうか。結論から言うと、それは書かれた内容によって区別されている。小説は「主に」虚構を描くために書かれたもの、なのである。
 もちろん、短歌や詩も、虚構を交えて書くことがある。しかしそれはあくまで「作者の心情を効果的に表すため」に用いられる「手段」であって、その主体は「心情の表現」となる。
 逆に、小説に織り込まれた作者の心情は、小説にとっては二次的なもの、ということになる。小説の本分は、あくまで「虚構を描く」ことである。






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