富野由悠季「劇を組み立てる、物語の世界観を構築するということに関しては、アニメ監督の方が実写の監督よりもはるかにレベルは高い」


富野に訊け!! (アニメージュ文庫)


501 :名無しさん名無しさん2012/04/24(火) 22:54:18.12
ガンダムエース6月号「教えてください。富野です」
日本近代史学者與那覇潤との対談で興味深い個所があったのでちょっと抜粋

富野 (與那覇氏の前著『帝国の残影―兵士・小津安二郎の昭和史』について)
 僕は戦後の小津作品は全部観てますし、何より演出技法的には小津を目指している人間なんです。
 ただ、技法面での評価しかしておらず、内容的にはつまらない家庭劇しか撮れなかった、
 かなりオタッキーな人間だと思い込んでいたんです。それが大きな間違いだったと先生の本で知りました。
 (略)小津は、戦場でリアルに殺し合いと被災者と死体と前線というものを体験した人だった。
 だから、ささやかな家庭劇を作り続けることで、自分は戦争を描かないということを徹底的に意思表示してるんですよね。
 この凄まじさがわかったときに、観念的にですが、僕、小津作品が大好きになりましたもん(笑)(略)
那覇 富野監督が小津作品を目指したというのは、文化史的に非常に貴重な発言なような気がします。
 もしかしたら、アニメーションって小津作品に近いんじゃないでしょうか?
富野 アニメの場合、技術的にそんなに自由に動かせないから小津的になるんですよ。特に僕はそれを意識しました。
 小津の映画って、横の動きだけじゃなくて奥行きを感じさせる前後の動きがものすごくきれいなんですよ。
 こんなにきれいに人が動く映画ってまずない。外国人が小津作品を好きな理由もそこにあると思います。
那覇 なるほど。監督はかつて松竹ヌーベルバーグへの反発心があったとおっしゃっていますよね。
 ヌーベルバーグとは、動きのひとつひとつをきちんとカット割して撮るよりも、置きっぱなしのカメラの前で
 役者に勝手にやらせたほうがリアルだとして、それまでの映画の文法を破壊するような試みだったわけです。
 それに対してアニメというのは、まず描かなきゃ画面にすらならないわけですから、自分で世界を作る必要がある。
 作品世界をきちんと演出しきるというスタイルが、小津安二郎から富野監督を経て、実写ではなく
 アニメのほうへと流れていったというのは、僕にはとても重要なことに思えます。




502 :名無しさん名無しさん:2012/04/24(火) 22:54:34.41
富野 そういう意味では宮崎監督もそうだけど、アニメの監督という目線で語られてしまうことが多い。
 でもね、劇を組み立てる、物語の世界観を構築するということに関しては、アニメ監督の方が実写の監督よりもはるかにレベルは高い。
 ”らしさ”を作るのに、実写のような力のある映像ではなく、絵という記号を使うしかないんだから。
 それを組み立てる構造論はなまじのものじゃない。でも、映像関係者はとにかくこれをわかってくれませんね。
 実写の方がリアルだと思って。
那覇 それは小津が戦後に浴びた批判と同じですね。街角にカメラを持ち出すのがリアルなんだ、お前のは作りものじゃないか、
 こんな嘘臭い理想の家族なんかどこにもないよと叩かれたわけですが、実際には映画の中で現実を構成していく力というのは、
 小津の方がはるかに高かったんですよね。







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