つまらなさに誇りをもつのは「純文学」陣営の伝統なんです、売れなさも


たとえば純文学はこんなふうにして書く―若手作家に学ぶ実践的創作術


2 :吾輩は名無しである:2011/01/11(火) 07:02:17
つまらなさに誇りをもつのは「純文学」陣営の伝統なんです。売れなさも。



3 :吾輩は名無しである:2011/01/11(火) 07:08:32
もう少し深くいうと、
つまらなくてもいい、売れなくてもいい、情けなくてもいい(自然主義)。
この三拍子で大衆文学から自らを隔離する体系を、「純文学」と定義して、文壇はやってきました。

村上春樹はそれを構図的にぶっ潰したので、文壇からも大衆からも一定の偏見でみられています。
文壇からは「ろくでもない奴」として、大衆からは「読みやすい○○小説」として。
 綿谷と金原が同時受賞した時は、実はこの村上春樹的なポップ文学の部分を文壇がとりこんだんですよ。




4 :吾輩は名無しである:2011/01/11(火) 07:15:13
石原慎太郎は、純文学の側からいえば正統派ではありません。
売れすぎますし、下流風俗的すぎます。だから文壇からリーダーとはみられていません。
彼はいつも亜流です。
 この大衆主義的な亜流さを文壇が一種の中和剤として利用しているというだけ、とみていいでしょう。

本当に純文学の王道をみてみれば、平野啓一郎川上弘美島田雅彦、こういう人がいますよ。
新人が数多く出るのは当然です。毎年4つ以上の賞が複数人以上を受賞させますからね。
 しかし、>>1さんは、純文学の本質が、非大衆文学としてのアイデンティティにあることを見逃されており、
そうである限り、一般的にみてドウシヨウモナイ小説その他が量産されているのは、然るべきことなのです。
そのドウシヨウモナサこそ純文学の正統派だから。冗談ですが。





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