東浩紀「小説はコンテクストを作らなくても読者が勝手に感情移入してくれる装置」
引用元:http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1348217833/
東 小説はコンテクストを作らなくても読者が勝手に感情移入してくれる装置、具体的には「登場人物」という装置を持っている。
バフチンがドストエフスキーの作品世界をポリフォニーと呼んだように、
小説には登場人物がいっぱいいる。その意味では、批評には登場人物が「私」ひとりしかいないんですよ。
平野 それで言うと、小説の場合、世界観のエージェントとしての登場人物たちが具体的にぶつかってくれないと、
話が動かないところがありますね。映画でも、『ターミネーター』だったら、あのスカイネットというのを代表する
エージェントとしてターミネーターがいなきゃいけないし、『マトリックス』はまさにエージェントだし。
だから、ドストエフスキーの場合も、複数の思想のエージェント同士が議論してる感じですね。
東 そう。この問題はけっこう重要で、思想の専門家というのは思想史を小説のように読んでるんですよね。
平野 ええ、そうですね。
東 というか、私見では批評の才能はそれに尽きます。現実の人間を登場人物のように見なす能力。
そのレベルに立てるか立てないかは、身体感覚みたいなもので、立てるひとは最初から立てる。
平野 確かに、フーコーの『性の歴史』とかを読んでて面白いのは、「こう言われてきたけど、違う、こうだ」
というような、徹底して対話篇的に、議論が擬人化されてるせいですね。
東 本当にいい思想史は小説のように読めるんですよね。とはいえ、いずれにしろ、
僕はそういうゲームの中で一人の登場人物として振る舞うのに疲れてしまった(笑)。少なくとも僕の半分は。
【特別対談】情報革命期の純文学/東 浩紀+平野啓一郎
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/201001_talk01.html
私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)
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