ウラジーミル・ナボコフ「ドストエフスキーは偉大な作家ではなくてむしろ凡庸な作家」
引用元:http://toro.2ch.net/test/read.cgi/book/1349415233/
ナボコフ著「ロシア文学講義」 (小笠原豊樹訳 TBSブリタニカ)
(死の家の記録について)
「これは楽しい読み物ではない。ドストエフスキーが蒙った屈辱や虐待はすべて詳細に叙述され、周囲の
犯罪者たちのことも詳しく述べられている。このような環境にあって本当に狂ってしまわぬために、
ドストエフスキーはある種の逃げ道を見つけ出さねばならなかった。逃げ道とはすなわち神経症的な
キリスト主義(クリスチャニズム)で、この思想は流刑期間中に形成された。周囲の囚人達が恐ろしい獣性を
あらわにする以外に、時たま人間的な面を見せたとしても、それはごく当たり前のことである。
ドストエフスキーはそれらの人間性の顕示例を掻き集め、それを土台にして非常に人為的に、かつ全く
病理学的にロシアの民衆の理想化を行なった。これは以後の精神的道程の第一歩である。」
「私たちは『感傷性』と『感受性』とを区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの
野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。……ドストエフスキーを
感傷的な作家と呼ぶ場合、それは、読者の側に因襲的な同情の念を機械的に惹起しようと、
ありふれた感情を非芸術的に誇張する作家、という意味なのである。」
(死の家の記録について)
「これは楽しい読み物ではない。ドストエフスキーが蒙った屈辱や虐待はすべて詳細に叙述され、周囲の
犯罪者たちのことも詳しく述べられている。このような環境にあって本当に狂ってしまわぬために、
ドストエフスキーはある種の逃げ道を見つけ出さねばならなかった。逃げ道とはすなわち神経症的な
キリスト主義(クリスチャニズム)で、この思想は流刑期間中に形成された。周囲の囚人達が恐ろしい獣性を
あらわにする以外に、時たま人間的な面を見せたとしても、それはごく当たり前のことである。
ドストエフスキーはそれらの人間性の顕示例を掻き集め、それを土台にして非常に人為的に、かつ全く
病理学的にロシアの民衆の理想化を行なった。これは以後の精神的道程の第一歩である。」
「私たちは『感傷性』と『感受性』とを区別しなければならない。感傷的な男は暇な時間には全くの
野獣になりかねない。感受性の豊かな人間は決して残酷な人間ではない。……ドストエフスキーを
感傷的な作家と呼ぶ場合、それは、読者の側に因襲的な同情の念を機械的に惹起しようと、
ありふれた感情を非芸術的に誇張する作家、という意味なのである。」
(白痴について)
「ムイシュキン一人が、ちょうどキリストのように、ナスターシャの身に起こりつつ合うことに
ついて彼女の非を全く認めず、自分の心からの感嘆と敬意とによって彼女を救おうとする。
(ここにもキリストと堕落した女との物語のパラフレーズが隠されている)。ここで、
ドストエフスキーについてのミルスキーの非常に適切な評言を引用しておこう。
『彼のキリスト教は非常にいかがわしい種類のもので……この深みを欠いた精神的構造物を
真のキリスト教と同一視することは危険である』。ドストエフスキーがつねに我こそは
ギリシャ正教の真の解釈者なりというふうに振舞っていたこと、そして一つ一つの心理的・
病理的縺れをほどくたびに、キリストを、というより自分のキリスト解釈を、ギリシャ正教会を
私たちに押し付けること──これらをミルスキーの評言に付け加えるなら、私たちは『哲学者』
ドストエフスキーの真に人を苛立たせる面をよりよく理解できるだろう。」
「ムイシュキン一人が、ちょうどキリストのように、ナスターシャの身に起こりつつ合うことに
ついて彼女の非を全く認めず、自分の心からの感嘆と敬意とによって彼女を救おうとする。
(ここにもキリストと堕落した女との物語のパラフレーズが隠されている)。ここで、
ドストエフスキーについてのミルスキーの非常に適切な評言を引用しておこう。
『彼のキリスト教は非常にいかがわしい種類のもので……この深みを欠いた精神的構造物を
真のキリスト教と同一視することは危険である』。ドストエフスキーがつねに我こそは
ギリシャ正教の真の解釈者なりというふうに振舞っていたこと、そして一つ一つの心理的・
病理的縺れをほどくたびに、キリストを、というより自分のキリスト解釈を、ギリシャ正教会を
私たちに押し付けること──これらをミルスキーの評言に付け加えるなら、私たちは『哲学者』
ドストエフスキーの真に人を苛立たせる面をよりよく理解できるだろう。」
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