太宰の娘と司馬遼太郎


街道をゆく 24 近江散歩、奈良散歩 (朝日文庫)


引用元:http://toro.2ch.net/test/read.cgi/book/1340951612/

210 :吾輩は名無しである2012/12/06(木) 10:38:38.15
週刊朝日」2012/12/7号
司馬遼太郎の街道 私と司馬さん  作家・太田治子さん夢見ごこちで奈良取材に同行
 司馬遼太郎夫人の福田みどりさんから突然の電話をいただいたのは1982年の暮れです。母の静子が亡くなったばかりで呆然としているときでした。
母は司馬さんを尊敬していて、私も司馬夫人のお名前は知っていましたが、まったくの初対面でした。
みどりさんが父・太宰治のファンで、「お母様が亡くなって悲しいでしょう。一度ぜひ会いたい」と言っていただいたのです。
 



211 :吾輩は名無しである2012/12/06(木) 10:40:30.92
ご夫妻と最初は東京のホテルオークラでお会いしました。私が緊張して話をしていたら、司馬先生は優しくて、
「今度、奈良に『街道をゆく』の取材で行くときに、時間があったら一緒に行きませんか」と言ってくださったのです。
実際に84年3月の東大寺のお水取りのときにご夫妻に同行させていただきました。 
週刊朝日の編集部の方と司馬先生と東大寺の二月堂や興福寺奈良公園を歩きました。
取材なのに、私はご夫妻と一緒に遠足をしているような気分でした。




212 :吾輩は名無しである2012/12/06(木) 10:41:53.04
夢見ごこちの旅で、思い出すと、「あのなー、治子さん」と歩きながら話しかけてきた司馬先生の笑顔が浮かんできます。
車で先回りされた司馬夫妻から、「お母さんの生まれ故郷の近江の愛知川駅から電車に乗って、ゆっくり風景を見てきなさい」と言われたことも忘れません。
《太田さんはNHKの「日曜美術館」の司会アシスタントを76年から3年間していた。司馬夫妻はそれを見ていて美術論もしたそうだ。》
 私は西洋の具象画が好きで、抽象画はどうも苦手。司馬先生は記者時代に美術評論も書かれていた「専門家」。
その司馬先生から、「興味がある作品だけ見ていればいいよ」と優しく言われました。
 



213 :吾輩は名無しである2012/12/06(木) 10:46:57.90
奈良での夜は、奈良公園の料亭で、ごちそうがたくさん出ました。
私がびっくりしていると、司馬先生が独身女性の私に、「どんどん食べなさい。治子さん、食べて太ったほうがいい」と何度も言われたのを覚えています。
旅行を終えてしばらくすると、「街道をゆく 奈良散歩」が週刊朝日で掲載されました。
司馬さんは奈良と近江が本当に好きなんだと何度も言われていたし、それが行間にあふれていました。
母の静子は興福寺の阿修羅が大好きで、私が子どものころから玄関に阿修羅の写真がずっと飾ってありました。
私は物心がついてから、その阿修羅の顔が母に似ていると思っていました。母は踏ん張って気持ちを抑えて生きていましたから。
司馬先生も阿修羅について力を入れて書かれていたので、そんなことを考えました。




214 :吾輩は名無しである2012/12/06(木) 12:45:33.22
《太田さんは司馬さんが亡くなった後に、週刊朝日百科「街道をゆく 奈良散歩」のための取材で、再び奈良を歩いている。》 
多武峯の談山神社で六條篤さんの娘さんに会ったり、興福寺奈良公園も歩きましたが、改めて歩くと、こんなのもあったのだと気がつくことばかり。
あのときに、司馬先生にもっとたくさん話を聞いておけばよかったと思うことばかりでした。
司馬先生ご夫妻には、私のわがままをすべて受け止めてもらって救われたと感謝しています。  
おおた・はるこ 神奈川県生まれ。1986年、『心映えの記』で坪田譲治文学賞
『明るい方へ父・太宰治と母・太田静子』『夢さめみれば 日本近代洋画の父・浅井忠』など著書多数。







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