爆笑問題のニッポンの教養 FILE092「ドストエフスキーより愛をこめて」 11月17日放送分を観たよ


罪と罰〈1〉 (光文社古典新訳文庫)


今回、爆笑問題亀山郁夫と対談するということで観てみた。


いつもは大学構内とかで対談してるんだけど、今回はロシア文学者がお相手ということもありロシア料理店にて執り行われることに。なんか店内がちょっぴり薄暗い感じだったので、良い雰囲気が出てました。「罪と罰」を語るにはもってこいのシチュエーションと言えるのかもしれない。「カラマーゾフの兄弟」で、イワンがアリョーシャに対して“大審問官”を語った料理店もこんな感じだったのかな? なんてことも思いながら観始める。


爆笑問題・太田さんが亀山さんに「なぜロシア文学を専攻するようになったのか?」と聞いていたんだけど、そのきっかけはやはり「罪と罰」を読んでからだということらしい。なんでも13歳で読破したというもんだから驚いた。すごいなぁ、僕が13歳の頃ではドストエフスキーのドの字も知らない漫画少年だったけど。


その「罪と罰」を読破してからは主人公のラスコーリニコフに完全にシンクロしてしまって、自分自身も警察に捕まるんじゃないかと考えたりもしていたらしいです。やっぱ13歳くらいで読むと、そのくらい感情移入してしまうのかもなぁ。自分を殺人者だと思い込んでしまう感覚ってどんな感じなんだろう? 自己否定よりは自己保身に走るもんなんだろうか?


それに対して、太田さんは「罪と罰」には、「ある種犯罪の美学みたいなところだけ受け入れて、そっちに走るという影響もある書物」だと言っていた。これはまあいわゆるナポレオン思想で言うところの「自分は他の人間よりも多くのことを許された人間なんだ」と思い込んでしまうっていうことに繋がるよね。


Death Note, Vol. 1 (Death Note (Graphic Novels))それらに関連させて、亀山さんは「デスノート」なんかも引き合いに出して話をしていました。やはりチェックしてるんだね、この作品も。まあある意味社会現象?的なことになった作品だもんね(中国ではそれに触発されて殺人も起きてたはず)


それから、「罪と罰」の物語の中で、主人公・ラスコーリニコフが自分の罪を娼婦・ソーニャに告白する場面について、彼らはこう語っている。

亀山:救いってあるんだなって感じしました。その時から何か自分にとっての大地という観念は、正直になるというか、自分の心を開くんだと。
太田:ああ、そうか。
亀山:どんなことがあっても、最終的には自分を開けばいいんだっていう、そういうふうなね。
太田:最終的に大地にキスをさせたドストエフスキーは、「いや、そうじゃない。やっぱりつながれ、ここは断ち切ったらそれはもう生きていけないんだ」と。そのまま宇宙空間にポンと放り出されるようなもので。そうじゃなくて、「大地につながれ」っていうメッセージだとすると、そこで読者は、あ、やっぱりつながっているんだっていうことで安心を得るとするならば、すごく分かるんです、その気持ち。
亀山:うん。
太田:おれが一番、今生きてきた中で一番安心出来ていた時代っていうのは、やっぱり母親の下で育っている子どもの頃ですよ。どこかそこを求めているんですよ、我々は。
亀山:うん、うん。
太田:で、そこに戻りたいと思っているんだけど、とてもそうはなれないのも知っている。だったら、離れちゃおうかと。つまり、離れて平気になりたいんですよ。だから断ち切ろうとするんだと思うのね、そのつながりを。でも、はたして幸せなのかっていったら、それは断ち切っているわけだから、それほどの孤独はないと思う。
田中:うん、そうだね。
太田:それをドストエフスキーは、「だからやっぱりつながるしかないんだよ」って言っているんだとすれば、おれはそこにすごく共感する。でも、今の。
亀山:それなんだと思う。それなんです。でね、断ち切って、断ち切られることの孤独とか恐怖を経験している段階ならね、まだ救いがあるんです。
しかし、母親の記憶もない、母親の愛情の記憶もない、としたら、その人間はどこに行くことになりますか。僕はそれが今、本当に確実に増えてきていると思う。
田中:なるほどね。なるほどね。
太田:うーん。
亀山:そして、ドストエフスキー文学の中の最大のテーマというのは、「黙過」っていうテーマだと思っているんですね。黙過っていうのは、要するに黙って見過ごすこと。誰がどこで何が行われようと、例えばそこでいじめがあろうと、誰かがそこで殺されようとしようが、どんなにかわいそうな人がいても、黙って見過ごしてしまうという。それを黙って見過ごすならばいいけれども、他人の死を願望するというね、そこまで踏み込んだ黙過ってあると思うんですよ。
太田:それもすごく分かるんですけど、そこでじゃあ、母に還らないと覚悟するっていうのも一つ有りだと思う。この母とのつながりあるいは国家とのつながりみたいなのをプチンと切るっていうのは、圧倒的な孤独なんだけど、その孤独に耐えられずに爆発しちゃうっていう例が多いんだと思う。だけど、切るなら切るで覚悟するべきだと思うのね。これの世界に行ったらとんでもない一生だぞっていうことを覚悟した上で、そこに踏み込むべきだと思う。つまり、だから重要なのは、そこに行く前の想像力だと思うのね。

上記の話から、秋葉原の通り魔事件の話に発展していくんだけど、やはりそこにいっちゃうのかと、どうしても思っちゃいましたが…。事件の犯人が派遣社員であったこととかネット掲示板に犯行予告を書いていたことなどから、社会的弱者であり全能感に酔っていたラスコーリニコフと重ね合わせたい気持ちは分かるんだけどねぇ……ちょっとこの手の話は正直聞き飽きた感があるんだよ、これが。でも、現代社会を映し出したかのような事件ということもあり、これからも何かと引き合いに出されるんだろうなぁ。まあ、どうでもいいか。


そんな話の中で、太田さんが言っていたことがちょっと興味深かった。どんなことを言っていたかというと、「彼のように自分のことを特別だと思っている人間には、それがあまりにも陳腐だということを思い知らせなくてはいけない」ということ。


それからこんなことも言っていた。

彼が起こしたような事件は、もうすでに100年以上も前に書かれているようなことなんだと、表現の中ではもうこんなの基本中の基本なんだと思わせなければならない。


あの青年を裁くのは表現者だと思う。こてんぱんに打ちのめすドストエフスキーのような天才たちの仕事を彼に見せ付けることだ。

これには「おー!」って素直に思いました。犯罪を起こそうと考える人間に、何かしらの表現によって「自分が考えていることはなんて陳腐なんだ」って思わせることができたならば、それがほんとに犯罪の抑止力になるかもしれない。この発想はなかったなぁ、素晴らしい。でも、亀山さんに「でも、その(表現を見せる)チャンスはあるの?」って聞かれちゃってたけどw


いやぁ〜なかなか面白かったです。「罪と罰」というテーマは普遍的な問題だから、いくらでも話ができるし発展させることができるよね。皆それぞれがその事柄について何かしら思うところを持っていることだろうし、議題とするならば面白いものが期待できるものの一つだと思う。あーなんか誰かと議論したくなってきた、陳腐なことしか言えないけど…。



【関連記事】


→「本読みのスキャット!」TOPページへ