古典を学ぶ重要性について
引用元:http://toro.2ch.net/test/read.cgi/book/1352811151/
新聞記事から (産経新聞 正論 都留文科大学 新保祐司教授)
本日の産経新聞、正論で、都留文科大学の新保教授が古典を学ぶ重要性について書いておられました。なるほど、と思いましたので、書き留めておきます。
『・・・池田健太郎という、やや若くして亡くなったロシア文学者でドストエ
フスキーの『罪と罰』の翻訳者としても知られる人が昔、小林秀雄全集の月報に興味深いことを書いていた。
小林がもう60歳を過ぎていた頃、30代の池田は小林の家を訪ねた。
その時、小林は何と岩波文庫の翻訳で『罪と罰』を読んでいるところだったという。
池田という良質な精神の持ち主は、この事実に驚いた、あるいは驚くことができた。
池田はこう思ったのである。小林は長くドストエフスキーを読み、批評してきたし、『罪と罰』の内容など知り抜いている、その小林が、何度も読んだに違いない『罪と罰』の翻訳を改めて読めるということは、まだそのものの中に新しいものを発見できるからである、と。
そして、ロシア文学者で『罪と罰』の翻訳者である自分はかえって『罪と罰』そのものを読まず、研究書ばかり気にしている、と反省し、古典を繰り返し読むことはかえって難しく、新しい解釈などに注意をひきつけられている研究者根性というものを自戒していた。
本日の産経新聞、正論で、都留文科大学の新保教授が古典を学ぶ重要性について書いておられました。なるほど、と思いましたので、書き留めておきます。
『・・・池田健太郎という、やや若くして亡くなったロシア文学者でドストエ
フスキーの『罪と罰』の翻訳者としても知られる人が昔、小林秀雄全集の月報に興味深いことを書いていた。
小林がもう60歳を過ぎていた頃、30代の池田は小林の家を訪ねた。
その時、小林は何と岩波文庫の翻訳で『罪と罰』を読んでいるところだったという。
池田という良質な精神の持ち主は、この事実に驚いた、あるいは驚くことができた。
池田はこう思ったのである。小林は長くドストエフスキーを読み、批評してきたし、『罪と罰』の内容など知り抜いている、その小林が、何度も読んだに違いない『罪と罰』の翻訳を改めて読めるということは、まだそのものの中に新しいものを発見できるからである、と。
そして、ロシア文学者で『罪と罰』の翻訳者である自分はかえって『罪と罰』そのものを読まず、研究書ばかり気にしている、と反省し、古典を繰り返し読むことはかえって難しく、新しい解釈などに注意をひきつけられている研究者根性というものを自戒していた。
事は文学研究に限ったことではない。現代人は情報と解釈の過剰の中に
生きていて、逆に事の本質にぶつかることを避けている。本質は、ざら
ざらして厳しいからである。「様々なる」解釈の網の目から世界を眺め
ていた日本人は今回、世界そのものの過酷な事実とぶつかって立ちすくんでいる。
今年、生誕150年の内村鑑三のことを、私は「心を正しい位置に置
いた人」と書いたことがある。これは、小林秀雄と坂口安吾の有名な対
談「伝統と反逆」の中に出てくる表現を使ったものである。ドストエフ
スキーの『カラマーゾフの兄弟』の主人公アリョーシャにふれていると
ころで、安吾がドストエフスキーは学がない、無知ともいえる作家だっ
たと言ったのに対して、小林は学のようなつまらぬものは無くて、意識
して努力を重ね「心を正しい位置に置いた人」だと答えた。内村自身、
札幌農学校を首席で卒業し、生涯で全40巻に及ぶ著作を遺(のこ)し
たにもかかわらず、自らには、学才はない、徳才すらないと言った。
大震災を機に日本人は、精神的に大きく変わらなければならないとい
うことは、ほとんどの人が感じているに違いない。今日の日本人が、生
きている「今」という時間は、歴史的な時間である。あるいは、歴史的
な時間にしなければならない。その変化の根底には、本質論から離れた
知識とか自分を安易に納得させる解釈を求めるのではなく、「心を正し
い位置に置く」ことが必要なのではないか。
そのためには、例えば古典を1冊、解説書とか現代語訳を捨て去り、
原文を1年かけて読むこともいい。古典を謙虚に原書で読む行為そのも
のが、内容の理解や解釈などより、「心を正しい位置に置く」精神の土
台を築くであろう。』
生きていて、逆に事の本質にぶつかることを避けている。本質は、ざら
ざらして厳しいからである。「様々なる」解釈の網の目から世界を眺め
ていた日本人は今回、世界そのものの過酷な事実とぶつかって立ちすくんでいる。
今年、生誕150年の内村鑑三のことを、私は「心を正しい位置に置
いた人」と書いたことがある。これは、小林秀雄と坂口安吾の有名な対
談「伝統と反逆」の中に出てくる表現を使ったものである。ドストエフ
スキーの『カラマーゾフの兄弟』の主人公アリョーシャにふれていると
ころで、安吾がドストエフスキーは学がない、無知ともいえる作家だっ
たと言ったのに対して、小林は学のようなつまらぬものは無くて、意識
して努力を重ね「心を正しい位置に置いた人」だと答えた。内村自身、
札幌農学校を首席で卒業し、生涯で全40巻に及ぶ著作を遺(のこ)し
たにもかかわらず、自らには、学才はない、徳才すらないと言った。
大震災を機に日本人は、精神的に大きく変わらなければならないとい
うことは、ほとんどの人が感じているに違いない。今日の日本人が、生
きている「今」という時間は、歴史的な時間である。あるいは、歴史的
な時間にしなければならない。その変化の根底には、本質論から離れた
知識とか自分を安易に納得させる解釈を求めるのではなく、「心を正し
い位置に置く」ことが必要なのではないか。
そのためには、例えば古典を1冊、解説書とか現代語訳を捨て去り、
原文を1年かけて読むこともいい。古典を謙虚に原書で読む行為そのも
のが、内容の理解や解釈などより、「心を正しい位置に置く」精神の土
台を築くであろう。』
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