村上春樹は結婚しているが子供がいないという状態だと思うが、それに関してこう発言している
引用元:http://toro.2ch.net/test/read.cgi/books/1348475455/
村上春樹は結婚しているが子供がいないという状態だと思うが
それに関してこう発言している。
“こんにちは。これは個人的な問題になりますので、どうして子供を作らなかったかという
質問にはお答えできません”
(「そうだ、村上さんに聞いてみよう」p182)
しかしこの返答は「純文学」の作家としてふさわしいものだろうか?
「フィッツジェラルドが好きだ」「レイモンド・カーヴァーが好きだ」
「スタン・ゲッツが好きだ」「スパゲッティやサンドウィッチは・・・が好きだ」etc・・・
こうした見解・発言は村上春樹の全て「個人的な問題」ではないのだろうか?
人生において子供を作るか・作らないかといった
根本的かつシリアスな問題については「個人的な問題なので答えられない」というのか。
こうしたとぼけぶりは、一足飛びに聞こえるかもしれないが、現代の小子化問題の
一因となってはいないか?仮にも「純文学」の作家ならば、自分が子供を作らなかった理由について
答えるべきではないか?
大江健三郎が子供を作った理由について
またそうした経緯を「個人的な体験」として小説の形に昇華しているように。
それに関してこう発言している。
“こんにちは。これは個人的な問題になりますので、どうして子供を作らなかったかという
質問にはお答えできません”
(「そうだ、村上さんに聞いてみよう」p182)
しかしこの返答は「純文学」の作家としてふさわしいものだろうか?
「フィッツジェラルドが好きだ」「レイモンド・カーヴァーが好きだ」
「スタン・ゲッツが好きだ」「スパゲッティやサンドウィッチは・・・が好きだ」etc・・・
こうした見解・発言は村上春樹の全て「個人的な問題」ではないのだろうか?
人生において子供を作るか・作らないかといった
根本的かつシリアスな問題については「個人的な問題なので答えられない」というのか。
こうしたとぼけぶりは、一足飛びに聞こえるかもしれないが、現代の小子化問題の
一因となってはいないか?仮にも「純文学」の作家ならば、自分が子供を作らなかった理由について
答えるべきではないか?
大江健三郎が子供を作った理由について
またそうした経緯を「個人的な体験」として小説の形に昇華しているように。
と言ってみたものの、村上春樹の小説総体が
メタフォリカルには「自分がなぜ子供を作らなかったか」の
返答になっているように見えなくもない・・・
しかしそれは文学者として
人生において苦悩する人々に答える(少なくとも答えようとする)
という誠実さとは別次元の問題だろう。
メタフォリカルには「自分がなぜ子供を作らなかったか」の
返答になっているように見えなくもない・・・
しかしそれは文学者として
人生において苦悩する人々に答える(少なくとも答えようとする)
という誠実さとは別次元の問題だろう。
>541
大昔の春樹のインタビューで、「今子供を作ろうかどうか悩んでいるんです」というのがあった。
それによると、子供を作らない事は、「日本という血脈をぶった切る」という事だそうだ。
春樹は恐ろしい男だ。
大昔の春樹のインタビューで、「今子供を作ろうかどうか悩んでいるんです」というのがあった。
それによると、子供を作らない事は、「日本という血脈をぶった切る」という事だそうだ。
春樹は恐ろしい男だ。
最近の英語のインタビューでは、子供を作らなかった理由について、「だって、俺の子供が俺を嫌う事がわかりきっているから」
と答えている。補足まで。
と答えている。補足まで。
ほほう。インタビューにそういう発言があるのか。
こんど探してみよう。ありがとう
俺の記憶では「回転木馬のデッドヒート」内の「ハンティング・ナイフ」の中に
夫婦で「子供を作るかどうか」を話し合うというくだりがあった(いま確認したら文庫p168)が、
それ以外ではおそらくこの問題は触れられていないんじゃないかな。
いずれにせよ初期村上文学というのは、親子関係というもの(血縁的なドロドロしたもの)とは
無縁のところで自己の文学を確立したいという意志に貫かれているように見えるし、また逆に
後期村上文学(アフター40って言うの?)は、その不可能性に打ちひしがれていく過程の
ように見える(ねじまき鳥〜カフカ〜1Q84の流れ)
まあこんなのは一つの読み方に過ぎないのは言うまでもないが、
それでもこれでかなり一貫した村上文学に対する説明が可能になるように思う。
(俺個人は日本文学全体がこれでかなり説明可能になると思うし、
また実を言うと日本総体の現状の問題がかなり解明できると思っているがw)
やはり自分の親が教師だったり聖職者だったり、多少エラい人だったりすると、
子供はどうしてもそれに対する異常な従順or反発という形で自己を形成してしまうのだろうか。
春樹がエルサレム賞のスピーチで亡くなった自分の父親にやや肯定的に言及しているのを読んで
俺は多少感慨深かったのだが…
やべえ。今日は寝られなかった。
仕事行かなくちゃ・・・
こんど探してみよう。ありがとう
俺の記憶では「回転木馬のデッドヒート」内の「ハンティング・ナイフ」の中に
夫婦で「子供を作るかどうか」を話し合うというくだりがあった(いま確認したら文庫p168)が、
それ以外ではおそらくこの問題は触れられていないんじゃないかな。
いずれにせよ初期村上文学というのは、親子関係というもの(血縁的なドロドロしたもの)とは
無縁のところで自己の文学を確立したいという意志に貫かれているように見えるし、また逆に
後期村上文学(アフター40って言うの?)は、その不可能性に打ちひしがれていく過程の
ように見える(ねじまき鳥〜カフカ〜1Q84の流れ)
まあこんなのは一つの読み方に過ぎないのは言うまでもないが、
それでもこれでかなり一貫した村上文学に対する説明が可能になるように思う。
(俺個人は日本文学全体がこれでかなり説明可能になると思うし、
また実を言うと日本総体の現状の問題がかなり解明できると思っているがw)
やはり自分の親が教師だったり聖職者だったり、多少エラい人だったりすると、
子供はどうしてもそれに対する異常な従順or反発という形で自己を形成してしまうのだろうか。
春樹がエルサレム賞のスピーチで亡くなった自分の父親にやや肯定的に言及しているのを読んで
俺は多少感慨深かったのだが…
やべえ。今日は寝られなかった。
仕事行かなくちゃ・・・
何か忘れたけど、小説の中で自分の子供が自分に似ていたら
どう扱っていいのか困るみたいなこと書いてたような?
病的な西洋かぶれだから、白人の子を作れるのなら作るんじゃないかなw
どう扱っていいのか困るみたいなこと書いてたような?
病的な西洋かぶれだから、白人の子を作れるのなら作るんじゃないかなw
単に出来なかっただけじゃないの?
自分もしくはパートナーの体に問題があった場合だってあるから、
結局最後は夫婦の問題よ。他人が口出すもんじゃないと思うがな。
結局最後は夫婦の問題よ。他人が口出すもんじゃないと思うがな。
もちろん一般人なら「他人が口出すもんじゃない」で終わると俺も思う。
だけど俺がこだわっているのは、例えばカントは
「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」
と言っている。つまり
「君の選択が全ての人がそうすべきであるといえるように行為せよ」ということだ。
これは厳しい原理だと思うが、倫理や道徳のある種の基礎であって、
表現者ならば(とりわけ純文学の作家ならば)これをある程度守る、
そしてそれについて語る必要があると思うんだよ。
だから「スタン・ゲッツを選択する」というレベルで個人的なことについていろいろ語るなら、
「子供を作らないことを選択する」のも、その選択の理由(作らなかったのか、と言ってるんだから
作れなかったのではないだろう)を、純文学の作家ならば語るべきじゃないかと俺は思うんだよ。
この問題は「そんなこと語らなくてもいいんじゃないの?」という人と
俺とでは倫理観が違うというだけかもしれない。
(少なくとも作家に要求される倫理というものについての考えが)
だから終わりにしよう。
だけど俺がこだわっているのは、例えばカントは
「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」
と言っている。つまり
「君の選択が全ての人がそうすべきであるといえるように行為せよ」ということだ。
これは厳しい原理だと思うが、倫理や道徳のある種の基礎であって、
表現者ならば(とりわけ純文学の作家ならば)これをある程度守る、
そしてそれについて語る必要があると思うんだよ。
だから「スタン・ゲッツを選択する」というレベルで個人的なことについていろいろ語るなら、
「子供を作らないことを選択する」のも、その選択の理由(作らなかったのか、と言ってるんだから
作れなかったのではないだろう)を、純文学の作家ならば語るべきじゃないかと俺は思うんだよ。
この問題は「そんなこと語らなくてもいいんじゃないの?」という人と
俺とでは倫理観が違うというだけかもしれない。
(少なくとも作家に要求される倫理というものについての考えが)
だから終わりにしよう。
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